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西表島の歴史

2020-01-24 09:13

西表島の歴史

 

沖縄県の八重山諸島に位置する西表島は、先史時代から人が住んでいると考えられている歴史の深い島です。
現代においては、世界自然遺産の候補地の一部として日本政府からユネスコに推薦されるなど、その大自然が注目されがちな島ですが、長い歴史に伴うさまざまな変遷を経てきた土地です。

西表島は八重山諸島の一部として歴史が共有されていることが多く、限定して語ることが難しいため、西表島を含む八重山諸島全域を含めて、その歴史をご紹介していきます。
多くの遺跡や自然が残る西表島にはどういった文化が生まれ、どういった経緯を経てきたのでしょうか。
本記事ではそんな西表島の歴史について、簡潔にまとめてご紹介していきたいと思います。

 

西表島の歴史の変遷

①先史時代

12世紀以前

西表島への居住が先史時代から始まったと考えられているのは、島の古い地層から出土した貝塚や遺跡の痕跡によるものです。

特に古いものは4000年から3500年ほど昔の地層から見つかっており、その時代から西表島に生活が根付いていたことがわかります。

おそらくは言葉を介する以前に独自の文化が形成されていたと考えられていて、石垣島など10の有人島を含む八重山諸島の中でも、特に早くから集落が形成されていたと見られています。

12世紀以前のこの文化圏を語るには、他の地域と比べていささか特殊な変遷を辿った文明について触れなくてはなりません。

というのも、この時期の八重山は主に有土器時代と無土器時代という二つの区分に分けられます。

土器がなかった時期の後に土器が根付いた時期があるのは他の土地と同じじゃないかと思われるかもしれませんが、そうではなく逆なのです。

八重山においては不思議なことに先に有土器時代が訪れてから、その後に無土器時代が訪れたとされているのです。

八重山の有土器時代は外から土器技術を持った人が渡来したことによって始まり、800年ほどの期間を経て無土器文化へと戻り、その後12世紀ごろまで無土器時代が続いたと見られています。

これは現在同じ県として区分されている沖縄本島とも大いに異なり、沖縄本島は縄文時代、弥生時代という本土と同様の時代の流れを経ています。

現在こそ県という区分で分けられてはいますが、本島から西表島まで400km以上も離れているという物理的な距離がこの差を生んだといえるでしょう。

八重山の有土器時代に用いられていた石器は南方系で見られる特徴と合致するものが多く、フィリピンなど南方の国から渡来してきた文化が大きく影響したのではないかと考えられています。
そんな先史時代の代表的な遺跡は下記の通りです。

 

■先史時代の遺跡

・ 仲間第二貝塚

時代: 有土器時代

時期: 4000-3500年前

 

・鹿川ウブドー遺跡

時代: 有土器時代

時期: 4000-3500年前

 

・上原貝塚

時代: 無土器時代

時期: 4世紀~11世紀

 

・中野西崎貝塚

時代: 無土器時代

時期: 4世紀~11世紀

 

・船浦貝塚

時代: 無土器時代

時期: 4世紀~11世紀

 

②グスク時代

次に訪れた時代はグスク時代と呼ばれる13世紀~14世紀末頃にかけてのものです。

この時期を境に多くの人々が集団で共同生活を送るようになり、土器や鉄器が広く用いられるようになり、稲作や畑作を主体とした農業の発展とも併せて社会的なコミュニティが築かれていきました。

それに伴うように集団の中から大衆を先導する存在が台頭し、彼らの存在が後々の支配者へと成長していきます。

しかし西表島は比較的この頃の時代の流れが穏やかであったと考えられており、島を一人が牛耳る形の政治的な支配者はまだ存在せず、争いもほとんどない時代と見られています。

見られている、という曖昧な表現となってしまうのは、西表島及び八重山諸島の歴史は14世紀以前の記録がまったく残されていないためです。

そのため、遺跡などから概ねの情勢を予想するしかなく、完全な実態を把握することは難しいものとなってしまっています。

史実関係がはっきりとするのは15世紀に入ってからのことで、この時期以降は八重山の各島に按司(あんじ・あじ・あず)と呼ばれる支配者が台頭したことが記録に残されているようです。

 

③琉球王国

歴史の転換点と言えるのが1500年。
2世紀にわたって続いてきたグスク時代が終わりをつげ、1500年に琉球王国の支配を受けてしまいます。

その30年後には首里王府から送られた西塘(にしとう)が竹富大首里八重山大屋子(たけとみうーしゅりやえやまうーやく)となることで、実質的に八重山諸島も琉球の支配下となりました。

この時期にオランダから漂着した船により、当時恐れられていた熱病マラリアが八重山へと侵入してしまいます。

マラリアとは熱帯や亜熱帯で蚊を媒介として流行する原虫感染症で、その症状は高熱や吐き気など。

さらに重症の場合は脳へと影響が及び、意識障害、腎不全などの重篤な症状を招いて死に至ってしまうという恐るべき病気です。

西表島を含む八重山諸島は以降長きに渡りこの病に苦しまされることとなり、撲滅されたのはなんと1961年と400年以上後年のことでした。

さらに八重山諸島に不幸が襲い掛かったのが1602年。

マラリアの流行も未だ収まらぬ最中、さらに八重山諸島では疱瘡(ほうそう)が発生して多くの死者を出してしまいます。

疱瘡とはいわゆる天然痘で、世界的に猛威を振るい大量の死者を出した死病です。

病との戦いは西表島、八重山諸島の歴史を語る上で重要な要素だと言えるでしょう。
この時期の歴史の流れとしては、1609年には薩摩藩が琉球へと進攻し、琉球が薩摩の支配国となったことで間接的に薩摩藩の支配を受けることとなります。
1711年には新城島民が強制的に西表島仲間村へ、竹富島民が西表島仲間村へと強制移住させられました。

これらは首里王府による寄人政策と呼ばれ、未開地の開墾を目指すというものだったのですが、マラリアなど病の流行で命を落としてしまった人も多く、成功を収めたとは言い難いものでした。

この時期に風疹で約636人、疫病で1996人が死亡したとされています。

 

④近代

琉球処分により琉球王国が琉球藩となった7年後に廃藩置県が実施され、琉球藩は現在と同じ沖縄県へと名を変えました。

それに伴い、八重山諸島もまた沖縄県の一部へと組み込まれたのです。
この時期の大きな出来事としては、1886年に三井物産が囚人を集めて炭鉱採を受け継いだことが挙げられます。

大倉組などが炭鉱採掘を行い、多くの資源を手に入れました。

 

⑤現代

第二次世界大戦の大敗を機に西表島を含め沖縄県はアメリカからの占領を受けましたが、1972年に日本へと返還されました。
その4年後の1976年には日本本土と同じ放送が見られるようになり、1993年には民放2局が開局。
そうして、自然豊かな地として世界的な評価を受け、観光地としても人気が高い今の西表島へと至ったのです。

 

さいごに

八重山諸島全体と絡めつつ、西表島の歴史についてご紹介させていただきました。

西表島はすんなりとコミュニティが根付いた土地ではなく、紆余曲折と悲しい歴史を経て今の形へと至ったことがご理解いただけたでしょうか。
歴史を知った上で訪れてみると、きっとよりディープな観点で西表島に触れることができるでしょう。
ぜひ西表島を訪れて、その奥深さに触れてみてくださいね。